EPISODE 01
雪解けの回収現場
第一特務班への配属初日。
小規模白禍の回収現場で、主人公は神代 蓮と出会う。
深夜二時十四分。
粉雪の降る住宅街は、息を潜めたみたいに静まり返っていた。
街灯の明かりは弱く、路地の端に積もった雪だけがぼんやり白い。遠くを走る車の音も、薄い膜を隔てた向こう側から聞こえてくる。
ここだけ、街から切り離されているみたいだった。
三か月前の事件以来、私は保護と検査と基礎訓練を繰り返してきた。
記憶保全局。
死者の記憶が、他者を侵食する災害状態として白い花に現れる《白禍》を、回収し、封印し、必要なら弔花するための組織。
今日から私は、その第一特務班に限定配属される。
一人前の現場要員になったわけではない。
今夜の仕事も、神代さんの現場に同行し、指示された範囲で記録と確認を行うことだけだった。それが、私に許された仕事だった。
案内役の局員に連れられて、薄明市壱番街の住宅街へ入る。雪は深くない。けれど、踏むたびに小さく鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
「この先です」
路地の入り口で、案内役の局員が足を止めた。
「班長が到着するまで、指定位置で待機してください。白禍へは近づかないように」
「はい」
返事をした。確かに、したはずだった。
けれど、路地の奥に見えた白い光から、目が離せなくなった。電柱の影に、花が咲いている。
白い花だった。
雪と見分けがつかないほど薄い花弁が、風もないのに一枚ずつほどけていく。椿に似た丸みのある花弁。けれど、生きた花の重さはない。
紙とも、霜とも、灰ともつかない質感が、闇の中で静かに揺れていた。
綺麗だと思った。
思ってしまった。
「待機を」
背後で、案内役の人が何か言った気がした。
でも、その声は遠い。
花の奥に、何かがある。
白い花弁の重なりの向こうに、灯りが見えた。
小さな玄関。
濡れた靴。
湯気の立つ味噌汁。
誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
知らないはずなのに、懐かしい。
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
もう少しだけ見たい。
もう少し近づけば、この懐かしさの理由が分かる気がする。
いつの間にか、膝が雪についていた。
「……これは」
私は、白い花の奥を覗き込もうとした。
その瞬間、知らない記憶が流れ込んでくる。
雪の日の玄関。
赤い手袋。
帰ってこない人を待つ時間。
冷めた味噌汁。
何度も呼んだ名前。
寂しい。
悲しい。
でも、忘れたくない。
これは私の記憶じゃない。
そう思うのに、目を逸らせない。
白い花弁が、頬に触れそうなほど近づいた。
「そこまで」
後ろから、声がした。
低く、静かな声だった。
肩を掴まれたわけではない。
腕を引かれたわけでもない。
それなのに、体がぴたりと止まる。
私の足元に、細い札が一枚滑り込んでいた。
雪の上で墨線が白く浮き、見えない壁が立ち上がる。
白禍の花弁が、境界の向こうで震えた。
「君の記憶じゃない」
声は、すぐ後ろにあった。
振り返るより先に、その人の指先が視界の端を横切る。
二枚の札が低く放られた。
札はまっすぐ飛んだわけではない。配管の継ぎ目と電柱の根元へ、それぞれ吸い寄せられるように貼りつく。
墨線が一瞬だけ白く浮いた。
路地の空気が、ぴんと張る。
「戻っておいで」
そこでようやく、息ができた。
冷たい空気が喉を通って、自分の体の輪郭が戻ってくる。
「……はい」
返事をすると、後ろの気配がほんの少しだけ緩んだ。
「いい返事」
男の人が、私の横を通り過ぎる。
黒いコートの裾が、雪をかすめた。
その人は、白禍の前に立つ。
神代蓮。
第一特務班の班長で、今日から私が同行することになる人。
神代さんは白禍へ手を伸ばさなかった。距離を取り、路地全体を見ている。
壁、配管、電柱、雪の上。
さっきまでただの裏路地にしか見えなかった場所に、小さな札がいくつも置かれていた。
神代さんは白禍を追わない。先に、逃げ道を閉じている。
魔法みたいだと思った。でも、たぶん違う。
神代さんの動きには派手さがなかった。決まった手順を、間違えずに置いていく人の動きだった。
白禍が逃げるように花弁を散らす。けれど、散った先にはすでに札がある。
神代さんの指先が印を結んだ。
長い詠唱はない。
息を吐くような小さな声で、何かを閉じる。
札の墨線が淡く光り、白禍の花弁が内側へ折れた。
潰れたのではない。畳まれたのだと思った。
白い花は一枚ずつ形を失い、最後には掌ほどの札の上へ静かに重なっていく。乾いた音が一つした。路地に、静けさが戻る。
神代さんは封印した札を指先で挟み、墨線の乱れを確認してから、慎重に懐へしまった。それからようやく、こちらを振り返る。
「触ってない?」
「……たぶん」
「んー、たぶんは困るな。手、見せて」
言われるまま、両手を差し出した。
神代さんは触れずに、指先、手首、袖口の順に目で確認する。視線は穏やかなのに、確認は速い。
さっきまで白禍を封じていた人と同じ人だと分かっているのに、少しだけ別のものを見ている気がした。
危ないものを閉じる手順。
人が危なくなかったかを確かめる手順。
神代さんの確認は、その二つを分けていないように見えた。
「気分は?」
「少し、変な感じがします。でも、立てます」
「吐き気は」
「ないです」
「自分の名前は言える?」
一瞬、喉が詰まる。
名前。
私の名前。
心の中で確かめてから、頷いた。
「言えます」
「うん。大丈夫そう」
神代さんは短く息を吐いた。
そこで、やっと空気が少しだけ緩む。
「初日から事故られると困るんだよね」
「……困るんですか」
「困るよ。報告書が増える」
少し遅れて、神代さんが薄く笑った。
「俺が書くから」
その言い方が、さっきまで張りつめていた空気を少しだけほどいた。
軽い。
軽いはずなのに、確認を済ませるまでは絶対に言わなかった軽口だった。
「綺麗だからって、顔を近づけすぎ」
「……すみません」
謝ると、神代さんは封印札をしまった胸元を軽く押さえたまま、少しだけ目元を緩めた。
「うん。初日からキスする相手には、ちょっと向いてないかな」
一瞬、言われた意味が分からなかった。分かってから、顔が熱くなる。
「なっ……そういうつもりじゃ」
「知ってる」
あっさり返される。神代さんの声は軽い。けれど、目は笑いきっていなかった。
「白禍は、綺麗に見える。近づきたくなる。触りたくなる。中を見たくなる」
神代さんは、白禍が咲いていた場所を見る。そこにはもう、何もない。ただ雪だけが、街灯の下で静かに光っていた。
「だから最初に危ないのは、怖がらない人じゃなくて、ちゃんと見ようとする人」
その言葉が、胸の奥に残る。
ちゃんと見ようとする人。
それは、私のことを言っているのだと思った。
「……さっき、何か見えました」
言ってから、しまったと思った。
でも神代さんは、驚かなかった。
「何が?」
「玄関みたいな場所と、靴と……誰かの声です。知らないのに、懐かしい感じがして」
言葉にした途端、さっきの感覚がまた胸の奥で薄く揺れた。
私のものではない寂しさ。私のものではない懐かしさ。なのに、確かに自分の中に残っている。
神代さんは少しだけ黙り、それからいつもの調子に戻すみたいに肩をすくめる。
「そっか」
「これって、よくあることなんですか」
「よくあったら困るかな」
軽い言い方なのに、否定だけははっきりしていた。
「その感覚には、あまり深入りしない方がいいよ」
神代さんは路地の外へ視線を向ける。
遠くで車が一台、雪を踏む音を立てて走り去った。
「白禍は、ただの花じゃない。近づいたからって、すぐに何かを失うわけじゃないけど」
そこで一度、言葉を切った神代さんの横顔は、街灯の影に半分だけ沈んでいた。
「どこまでが自分なのか分からなくなるくらい、向こうへ寄るのは危ない」
「……はい」
神代さんは頷く。
「じゃあ、戻ろうか。報告と確認が先」
「はい」
歩き出そうとして、私はもう一度、白禍が咲いていた場所を振り返った。
白い花はもうない。封印され、回収された。
それなのに、誰かの玄関と、濡れた靴と、名前を呼ぶ声だけが、まだ胸の奥に残っている。
私の記憶ではない。そう言われた。でも、ではこれは誰のものなのだろう。
足音が少し遅れたのに気づいたのか、少し先で神代さんが足を止める。
「そっちじゃないよ」
私が顔を上げると、神代さんは路地の出口で待っていた。
「……戻りません」
「うん。それでいい」
そう言って、神代さんはまた歩き出す。
雪はまだ降っていた。
薄明市の夜は静かで、白く、どこか他人の記憶みたいに冷たい。私はその中を、神代さんの背中を見失わないように歩いた。