EPISODE 02

眠らぬ街の境界線

封印された白禍の余韻を抱えたまま、主人公は神代と夜の街を戻る。

弔花のレリクス ― 白禍回収録 ― 01 / MAIN STORY

2月5日 午前2時30分

封鎖区域を出る頃には、雪はほとんど止んでいた。街灯に照らされた路面だけが薄く濡れ、少し離れた大通りをタクシーが一台通り過ぎていく。コンビニの白い看板が光り、信号が変わる。どこかのビルには、まだいくつか窓に明かりが残っていた。

ほんの少し前まで、この先の路地には白禍が咲いていた。結界が張られ、神代さんがそれを封じて、私は知らない誰かの記憶の中へ引きずられかけた。

それなのに、封鎖線を一本越えただけで、街は何事もなかったみたいに夜を続けている。

歩きながら、自分の手を見る。震えはもう止まっていた。指先にも、手首にも、何も残っていない。それでも、胸の奥だけがまだ現場に置いてきぼりにされたみたいだった。

「歩ける?」

少し先から声がして顔を上げると、神代さんがこちらを振り返っていた。眠たげな青灰色の目が、一度だけ私の足元へ落ちる。

「はい。大丈夫です」

「ん」

神代さんはそれ以上聞かなかった。ただ、それまでより少しだけ歩く速度を落とした。

「じゃ、ゆっくり戻ろうか」

また歩き出した神代さんに追いつき、その隣を歩く。しばらく会話はなく、濡れた舗道を踏む靴音だけが二人分続いた。

沈黙は不思議と気まずくなかった。何かを話せとも言われず、急かされもしない。ただ隣を歩いている。そのことに少し安心して、私は口を開いた。

「あの」

「ん?」

「さっきの白禍なんですけど」

「うん」

「もう、封印されたんですよね」

「されてるよ」

どう言えばいいのか迷ってから、ようやく口を開く。

「なのに……まだ、悲しいんです」

神代さんが足を止め、私も少し遅れて立ち止まった。

「さっき見えたものを思い出してるだけなのかもしれません。でも、そういう感じじゃなくて……まだ誰かが、待ってるような気がするんです」

風が細い路地を抜けた。神代さんはすぐには何も言わず、ポケットから煙草の箱を取り出して一本だけ抜いた。けれど、火はつけない。指先で煙草を転がしながら、少しだけ考えているように見えた。

「……それ、いつから?」

「現場を出てからも、ずっとです」

「薄くなってる?」

「分かりません」

「そっか」

返ってきた声には、さっきまでの軽さがなかった。

「じゃあ、無理に忘れようとしなくていい。でも、自分のものだとも決めないで」

「……自分のもの?」

「今感じてるものが、君自身の感情なのか、さっき触れた記憶の残りなのか。まだ分からないから」

大丈夫とも、気のせいとも言わなかった。分からないものを、分からないまま扱う。その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。

「……はい」

「そのまま夜華に話して」

「御堂さんに?」

「うん。解析担当。俺よりこういうのは詳しいから」

神代さんは指先で転がしていた煙草を箱へ戻した。結局、一本も吸わなかった。

「説明は分かりやすいよ。愛想は別として」

そこまで真面目に話していたのに、最後に余計な一言がついてくる。思わず笑うと、白禍のことばかり考えていた頭が、ほんの少しだけ現実へ戻った。

「……それ、御堂さんにも言ってるんですか?」

「愛想がないこと?」

「はい」

「本人が一番知ってるんじゃない?」

「そういう問題ですか?」

「違う?」

「たぶん」

「じゃあ、今のは黙ってて」

「言いません」

「助かる」

さっきまでより少しだけ、いつもの調子に戻った。

それでも、煙草を一本抜いたまま、火もつけずにいたことが引っかかっていた。白禍の話をしている間だけ、神代さんの様子がほんの少し違っていた気がする。

何が違ったのかは、うまく説明できない。聞いていいことなのかも分からないまま、私はまた隣を歩いた。

記憶保全局へ戻った頃には、午前三時を回っていた。深夜の庁舎は静かで、人の気配はあるのに、昼間より広い廊下の音だけが必要以上に響いている。それでも、初任務の報告くらいは済ませておかなければと、端末を取り出した。

「報告書、書いてきます」

「今から?」

「はい」

「今日、初日だよね」

「だからこそ、忘れないうちに」

「なるほど。じゃあ質問」

「はい」

「今からまともな文章、書けそう?」

返事に詰まった。頭が重く、身体も冷えている。さっきまで平気だと思っていたのに、建物へ戻った途端、疲労が一気に表へ出てきた。

「……あまり自信ないです」

「でしょ。明日読んで全部直すくらいなら、今日は寝た方が早いよ」

「でも、神代さんは?」

「俺?」

「報告書」

「ああ。これは俺の仕事」

神代さんが端末を軽く持ち上げる。

「私の分まで?」

「初任務の新入りを午前三時から報告書に沈めるのも、たぶん俺の仕事じゃない」

そう言って少しだけ笑う。冗談めかしているけれど、休ませるつもりなのは変わらないらしい。

「仮眠室、使っていいよ」

「場所がまだ……」

「知らないか。じゃ、案内する」

「神代さんも疲れてますよね」

「まあね。でも俺、場所知ってるから」

それはそうだ。あまりにも当然のことを言われて、張っていた気が少し抜ける。

「行こうか」

神代さんが歩き出し、私もその横へ並ぶ。蛍光灯の下、現場ではあれほど遠く感じた人が、今は普通に隣を歩いている。結界も、呪符も、白禍もない。私が少し歩みを遅らせると、神代さんも何も言わずに同じだけ速度を落とした。そのことだけが、妙に記憶に残った。

仮眠室の前で、神代さんが足を止めた。

「ここ。中にタオルと水あるから。足りなかったら内線して」

「ありがとうございます」

「ん。おやすみ」

「神代さんも」

「努力するよ」

「寝る気ないですよね」

「……ばれた?」

薄く笑う神代さんにつられて、私も少し笑った。ようやく、現場から帰ってこられた気がした。扉を閉める前に、もう一度だけ神代さんを見る。

「あの、さっきの話」

「どうした?」

「変だと思いませんでした?」

「変かどうか決めるには、まだ材料が足りないかな。だから、明日ちゃんと調べよう」
それから。

「だから、明日ちゃんと調べよう」

大丈夫とは言わなかった。何でもないとも言わなかった。

その代わり、分からないものを、分からないまま一緒に持ってくれた。

「はい」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

扉を閉めると、廊下の音が遠ざかった。ベッドへ腰を下ろして、ようやく息を吐く。静かだった。白禍はもうここにはない。それなのに、目を閉じると。

目を閉じると、まだ誰かが待っている気がした。

2月5日 午後1時

眠った。はずだった。

食堂のテーブルで、スープを眺める。表面には薄い膜が張り始め、窓の外には重たい冬空が広がっていた。

昨夜、仮眠室のベッドへ入って目を閉じてからも、何度もあの白い花を思い出した。雪の日の玄関。赤い手袋。冷めた味噌汁。帰ってこない人を待つ時間。

思い出したというより、まだどこかに残っている感じがした。

スープから立つ白い湯気が揺れる。ほんの一瞬、それが花弁に見えて、瞬きをした。そこにあるのは、ただの湯気だった。

「……疲れてるだけ」

小さく呟いてスプーンを持つ。それでも、食欲はあまりなかった。

昨夜の現場は終わった。白禍も封印された。私はここにいる。昼間の記憶保全局、その食堂にいる。

なのに、あの悲しみだけが、まだどこかへ帰っていない。

端末が震えた。画面を見ると、短い通知が一件届いていた。差出人は、御堂夜華。

本文は、さらに短かった。

地下第三解析室。14時。
昨夜の白禍について確認する。

「……」

本当に愛想がない。昨夜の神代さんの言葉を思い出して、端末を伏せる。説明は分かりやすい。愛想は別。

冷めかけたスープを一口飲んだ。味がしない。スープのせいではなく、たぶん緊張しているだけだ。

午後1時58分

地下へ続く階段は、地上より空気が冷たかった。一段降りるごとに、職員の声や端末の通知音、食堂の食器の音が遠ざかっていく。代わりに低い機械音が聞こえ始め、消毒液と金属、それにかすかな焦げ臭さが混じった空気へ変わっていった。冷たい手すりに触れながら、自分の足音を聞いて階段を降りる。

昨夜は、白禍のある場所から日常へ帰った。今は、自分からそこへ戻ろうとしている。怖い。それでも、知りたいと思った。あれが何だったのか。なぜ封印されたあとまで残っているのか。そして、なぜ神代さんがあの時だけいつもの調子ではなかったのか。

地下第三解析室の厚い防音扉の前で足を止める。時計を見ると、13時58分。少し早い。息を整えて扉をノックしたが、数秒待っても返事はなかった。もう一度叩こうとしたところで、扉の向こうから声がした。

「開いてる」

若い男の声だった。短い返事に促されるように取っ手へ手をかけ、重い扉を押す。冷気と一緒に、壁一面のモニターが目に入った。黒い画面を走る無数の数値、術式図、波形。そして部屋の中央には、透明な封印容器の中で昨夜回収された白禍が静かに咲いている。

その前に、一人の男が立っていた。こちらを振り返らないまま、声だけが落ちる。

「二分早い」

思わず時計を見直す。やはり13時58分だった。

「まあいい。入れ」

そこで初めて、御堂夜華がこちらを見た。黄緑の目がまっすぐ私を捉える。鋭い視線だった。何かを見落とさないために、こちらを細かく確認しているように見える。

「お前が昨日の新入り?」

「はい」

夜華の視線が私から、その背後にある白禍へ移った。

「じゃあ確認する。昨日、何を感じた」

封印容器の中で、白い花弁がかすかに揺れた。

私はまだ、それがただの偶然だと思っていた。