EPISODE 03
青い火花の解析室
地下第三解析室。封印された白禍は、主人公の接近にだけ反応を返す。
2月5日 14:00 PM:地下第三解析室
扉が閉まる音は、思ったより重かった。
地下第三解析室は、地上の廊下とは空気が違う。冷たく、静かで、それでも無音ではない。低い機械音が途切れることなく鳴り、壁際に並んだモニターでは、黒い画面の上を数値と波形が流れていた。
その中央に透明な封印容器がある。中に収められているのは、昨夜の白禍だった。封印されたはずなのに、目に入った瞬間、私を待っているような気がして胸の奥がわずかに痛む。
「そこ。それ以上近づくな」
声に反射して足を止める。
御堂夜華は机に向かったまま、片手で立ち位置を示していた。指定された場所で待っていると、画面を操作し終えた御堂さんがこちらを見る。
暗い髪に、黄緑の目。年齢は神代さんより若く見えるのに、視線だけならずっと鋭い。顔、手元、立ち位置と順に確認され、ほんの数秒で一通り見られた気がした。
「昨日の新入り?」
「はい」
「名前は」
答えると、御堂さんは短く復唱した。覚えるというより、手元の情報と照合しているように見える。
「座らなくていい。そのままで」
言われていた通り、説明は分かりやすい。でも、愛想はたしかに別だった。
思わず神代さんの顔が浮かぶ。
「何」
「いえ、何でもないです」
「顔に出てる。蓮、何か言っただろ」
「……説明は分かりやすいって」
「そこだけじゃないだろ」
「……愛想は別として、って」
「正しい」
「いいんですか」
「事実だから」
本人も知っていた。しかも、どうやら気にしてもいないらしい。もう少し何か言われるかと思っていた分、こっちだけ少し構えてしまった。
「で。昨日、何があった」
「神代さんから聞いてないんですか?」
「報告は聞いた。今はお前から聞いてる」
その違いなら分かる。報告に残された現象ではなく、私自身が何を見て、何を感じたのかを確認したいのだ。
「白禍を見て、記憶が流れ込んできました」
「内容は」
「雪の日の玄関と、赤い手袋。それから、冷めた味噌汁」
「感情は?」
「寂しい。悲しい。それと……誰かを待っていました」
「自分の記憶だと思った?」
「いいえ」
「最初から?」
今度はすぐに答えられなかった。白禍の前に膝をついていた時から、知らない記憶だとは分かっていた。それなのに懐かしくて、目を逸らせなくなった。
「……途中までは、分かっていたと思います。自分の記憶じゃないって思ってるのに、だんだん、それだけじゃなくなって」
「現場を離れてからは?」
「まだ悲しい感じが残っています。昨日より少し薄い……気はしますけど」
「今も?」
「はい」
「断定するな。分からないなら、分からないでいい」
少しきつい。でも、責められた感じはしなかった。
続けて頭痛や吐き気、記憶の欠落がないかを確認される。どれも自覚はないと答えたけれど、記憶についてだけは「たぶん」と付けてしまった。
「たぶん?」
「……確認できる範囲では、ないです」
「それでいい。自覚がない異常を正常扱いするのが、一番面倒だから」
その言い方に少しだけ引っかかった。面倒なのは私ではなく、見落とすことなのだと、なぜかそう聞こえた。
一通り確認を終えると、御堂さんが立ち上がる。
「じゃあ、次。反応を見る」
封印容器の方へ先に進み、少し離れた位置で私を止めた。
「ここから先は、俺が言うまで動くな」
「はい」
「封印は正常。今のところ異常なし」
昨夜とは違って、白禍は静かだった。花弁が散ることもなく、薄い白だけが幾重にも重なっている。紙のようで、霜のようで、触れれば灰になって崩れそうでもある。
見ているほど、形が曖昧になる。
「一歩」
言われた通り進む。何も起きない。
「もう一歩」
さらに近づいたところで、胸の奥がわずかにざわついた。
「あの、ちょっと……」
言い終わる前に短い警告音が鳴り、画面の波形が大きく跳ねた。
「止まれ」
御堂さんの声が変わる。それまでより低く、迷いがない。
言われたまま動かずにいると、封印容器の中で白禍の中心が一度、二度と明滅した。
まるで、呼吸をするように。
「……何ですか、これ」
「今は黙ってろ」
御堂さんはすぐに画面へ向かい、表示をいくつも切り替えていく。
「漏出なし。封印は正常。外からの干渉もない。一歩下がれ」
後ろへ下がると、白禍の明滅が弱くなった。
「もう一歩」
さらに離れる。波形が落ち着き、白禍も再び静かになった。
御堂さんは何も言わず、画面だけでなく封印容器の周囲や床、機器まで順番に確認していく。別の原因がないか、一つずつ潰しているのだと分かり、静かに待った。
「もう一回やる」
「もう一回やる」
「え」
「嫌ならやらなくていい。でも、この反応が再現するかは確認したい」
一度言葉を切る。
「どうする」
命令されると思っていたから、選ばせてもらえることの方が意外だった。
白禍を見る。怖くないわけではない。それでも、知りたかった。
「やります」
「分かった。異常を感じたら、その瞬間に言え。我慢するな」
もう一度、一歩。
波形が動く。
「もう一歩」
さらに進む。
白禍が明滅し、今度は花弁の端を細い光が走った。
白ではない。青。
一瞬だけ、火花のように弾ける。息を呑んだ。
「止まれ」
御堂さんの視線は画面に向いたままだった。
「……再現した」
私が近づけば白禍が反応し、離れれば静かになる。偶然ではないと理解した途端、その事実が急に重くなった。
「私が……何かしてるんですか」
「まだ決めるな。分かってない」
「でも」
「お前が原因とも、白禍が原因ともまだ言えない。今分かってるのは一個だけ」
御堂さんがまっすぐこちらを見る。
「お前が近づいた時だけ、反応が変わる」
「昨日も、そうだったんでしょうか」
「可能性はある」
「じゃあ、あの時感じたのも……」
「繋げるな」
はっきり遮られる。
「仮説は立てる。でも、仮説を事実みたいに扱うな。特に、自分のことは」
最後の一言だけ少し違って聞こえたが、理由は分からなかった。御堂さんは記録を保存すると、あっさり言った。
「今日はここまで」
「もうですか?」
「十分だ」
「でも、まだ調べられるんじゃ」
「できる。でも、やらない」
御堂さんは画面から目を離し、こちらを見た。さっきまで数値を追っていた鋭さはそのままなのに、続けるかどうかを迷っているようには見えなかった。
「お前の安全側の基準がまだない。どこまで近づけるのか、どれくらいなら問題がないのか、残った感覚がどう変化するのか。何も分かってない状態で限界を探るのは解析じゃない。ただの無茶だ」
柔らかくはない。でも、言っていることは神代さんと少し似ていた。素直に頷くと、御堂さんは続けた。
「あと、顔色落ちてる」
言われて初めて、自分の指先が冷えていることに気づいた。
御堂さんは机の横から小さなボトルを取り、こちらへ差し出す。
「飲め」
「水ですか?」
「見れば分かるだろ」
「……はい」
受け取った水は常温だった。なんとなく意外で、ボトルと御堂さんを交互に見る。
「何」
「いえ」
「また顔に出てるぞ」
さっきも同じことを言われた。会ってまだそれほど経っていないのに、もう二回も顔を読まれている。三回目は避けたいので、今度は余計なことを言わず大人しく水を飲む。
「しばらく一人で動くな。蓮に連絡する」
「神代さんに?」
「班長だろ。それと、今後白禍に何か感じても勝手に近づくな。昨日も、次も」
「そこまで信用ないですか」
「お前、自分が平気だと分かったら行くだろ」
否定しかけて、止まる。もう一度近づけば何か分かるかもしれない、とついさっきまで考えていた。
「……」
「ほらな」
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
三回目だった。
封印容器の中では、白禍がもう何事もなかったように静まっている。さっきの青い火花も消え、今はただの白い花にも見えた。
「御堂さん。さっきの光、青かったですよね」
「見えてた」
「何なんでしょう」
「まだ分からない。色に意味があるかどうかも判断できない」
結局、分からないことが増えた。
それでも昨日とは違う。昨日までは私の中にだけ残っていた感覚を、今は御堂さんも見ている。画面にも、きっと何かが残っている。
「昨日の感覚。気のせい扱いはしなくていい。少なくとも、何かは起きてる」
それだけ言って、御堂さんはまた入力へ戻った。愛想はない。本当にない。
でも、私が感じたことを最初から否定もしなかった。
「御堂さん、ありがとうございます」
「礼は結果出てからにしろ。それより、蓮が来るまでそこにいろ。勝手に出るな。白禍にも近づくなよ」
「本当に信用ないですね」
「さっきまで近づこうとしてただろ」
「……大人しく待ちます」
「分かったならいい」
手の中には、常温の水。向こうではまた、低い機械音が鳴っている。
昨夜、神代さんは分からないものを、分からないまま持ってくれた。今日、御堂夜華はその分からないものに、初めて輪郭をつけた。
私が白禍を見ているだけではない。あの白い花も、私が近づくと何かを返してくる。
その意味を、まだ誰も知らなかった。